1990年8月の日記
大学進学のことしか考えていない、日々のタスクが多すぎる高校に入ってしまった私は、ひたすら課題をこなす毎日を送っていた。セーラー服を着ていても、中身はまるで満員電車に押し込まれているような窮屈な日々。それでも「友達だけは最高」という理由で、通学は続けていた。
そんなある日、新聞をめくっていて偶然見つけたのが、ある団体の奨学金付き留学制度だった。世界中の高校生が世界各国へエクスチェンジ派遣される制度で、竹内まりやさんもOGだという。やたら喜んで背中を押してくれた両親と、人より少し長い夏休みになることを快く了承してくれた担任の英語の先生に感謝。
昨秋に合宿形式の試験を受け、私はアメリカ・フィラデルフィアにあるセントジョセフ大学のサマースクールに通うことになった。自然たっぷりで構内の木々にはリスが登り、寮も校舎も美しい建物ばかりで心惹かれるキャンパスだった。
振り分けられたのは、日本人が二人しかいない「ちょっとは英語が喋れます」クラス。私は英検準一級を取得してから参加した。クラスには同程度の英語力を持つイタリア人、チェコスロヴァキア人、韓国人がそれぞれ2名ずつ。
初日のオリエンテーションはフィラデルフィアのダウンタウン観光。
天気もよく、とても楽しかった。初めての英語だけのコミュニケーションは辿々しかったが、何とか通じて仲良くなり、たくさんの写真を撮った。
そして、ウキウキして起きた翌日のクラス。
先生が新聞を手にしていた。
見出しは「クウェート侵攻」――のちに湾岸戦争といわれた長い戦争の始まりである。
「あなたはどう思う?」と先生は全員に問いかける。語順や文法など気にせず、皆が次々に「自分の意見」を語っていった。
しかし、私ときたら——。
せっかく英語でコミュニケーションができるようになったのに、昨日とは打って変わって何も話せなかった。発言が苦手なタイプでは決してないのに、今まさに起きている出来事や国際情勢を知らず、すなわち意見も持てない。
そこにいながら、まるで存在していないのと同じだった。結局その時は黙り込むしかなかったけれど、あの沈黙の時間こそが「英語」を使う本当の目的と、”どれだけ知識を詰め込むかよりも、自分の意見を持つことの必要性”教えてくれたのだった。
「英語以前に、まず日本語で考えて意見を言えることを増やさなきゃ」。
そう痛感した出来事だった。
1999年8月の日記
新卒で入った会社は、お盆を挟んだ平日5日とそれを挟む2つの土日で毎年9日間の夏休みをもらえる。東京の実家に帰るのは別途出張としてギフトショーとかの市場調査のタイミングでできるので、就職してからの夏休みは大掛かりな旅行に行くことが多い。
敢えて生まれ育った東京以外の街で就職することを選び、ワーホリと囁かれつつおっしゃる通り確かに大学生Part2みたいな社会人生活も三年目の夏休み。
新卒の年はロードスターを車載して舞鶴からフェリーで北海道へ向かった。北海道そのものの楽しさももちろんあったけど、その時の人生初のフェリー移動が楽しくて楽しくてどうしようもない空間だった。頼むから次の旅行もどこでもいいから船旅にしようぜという話を帰ってからもパートナーにずっとしていた。そんで昨年は九州へ。大分から入って九州一周した。
さて今年はどうするかな・・
離島ガイドの本を見ていたら瀬戸内海を筆頭に、住んでいる西日本の島の数とアクセスの良さは感動的だった。だが、あまりにもアクセスが良いので私らの行動力なら余裕で週末のお出かけで行けそうな雰囲気で、長期休暇を潰すのは勿体無い。
世間からすると、9日も連休がある社会人というのはどうやら少数派なようで、そのアドバンテージを活かせる船旅って?日本国内で船内時間が一番長いのって九州北海道航路以外にどこがあるかなー、、と探していたらなんと、東京都にございました。
伊豆七島ではなく、小笠原諸島父島。
到着まで丸1日かかり、週に1本しか便数がないという。生活物資もその船で届くんだそう。だから商店には賞味期限の切れた食べ物が当たり前に並ぶ。
そして1か月前の昼休み、私は京都の僻地にある、会社の近くの田んぼを眺める公衆電話から電話予約のエントリーに勝利した。
出航日の前日にちょうど大型台風がやってきて出航が危ぶまれたが、無事定刻に出航。朝に出航して翌午前中に父島に着く。丸一日24時間船上に居られるなんて、なんて幸せなんだとこの1か月いろんな24時間をシュミレーションしていた。
東京湾の飽きない風景にキョロキョロしながらデッキをぐるぐる回り、完全に落ち着きのない25歳の子供。元気いっぱいであった。
が、外海に出た瞬間に大波。としまえんのバイキングさながらに上下する、、調子に乗ってデッキに出たら鯨サイズの波飛沫をかぶって死ぬかと思った。
井の中の蛙外海を知らず、とはよく言ったもので、初めての外海は台風後の余波で暴れ狂う恐ろしい生き物だった。
船内に入ると人という人が横になっていた。立っていられる人が全くいない。
と思ったら唯一、人が列をなしている場所を見つけた。トイレにざっと30人は並んでいるだろうか。全員船酔いのようである。なんという!
恐ろしいことにその列は人が変わるがわる長さは変わらず、到着の朝まで続いた。
あんなにウキウキシュミレーションしていた船上の24時間が地獄。
乗員全員全く眠れず、私も3回ほどトイレの列に並んだ。翌日島に降りるタラップからはげっそりしたゾンビに仕上がった人間たちがとぼとぼと力無く島に降り立つ。
ひとまず原付を借りて一周してみると、
父島は野趣溢れるワイルドな島で、自然環境はもとより色々と人の手がついてない感じがワイルドだった。第二次世界大戦の戦跡がところどころそのままになっていて、遠浅のとっつきやすい綺麗なビーチの真ん中に50mくらいある戦艦が沈んだまま放置され、小さくてカラフルな魚が大量に集まるシュノーケリングスポットとなっていたり、防空壕にしていたであろう穴場とか、沖縄で綺麗に保存されているような場所と同レベルのものが当時はリアルにそのまま残ってたりして、戦争を強く想起させるものが多かった。
夏休み明け、会社で(2000年以前は会社=メールやインターネットをする場所でもあった)太平洋戦争と父島を調べると超激戦地だったからこその人肉事件など驚くべき内容があの時点でも結構史実として残されていて、それまで「夏休み=非日常リゾート」だった私にとって、小笠原行きは大人になって改めて戦争を意識した出来事になった。
リアル残る戦争の爪痕は、「過去と今が地続きである」という現実を強烈に突きつけた。
1985年7月の日記
小学校3年から入った地域のソフトボールチーム。
神宮や西武球場での野球観戦で幼少の頃から慣れ親しんだ球技、当時は女子はソフトボール・男子は野球というのが至極当たり前となっていて、女子野球というのはなかった。
ともあれ野球的なスポーツを自分がプレイできるのは最高にワクワクした。
自分で言うのもなんだが、テストは10分そこそこで終わって時間を持て余し結果はだいたい100点だし、好きな習い事を見つけても「そこそこできちゃう」までが早くてすぐ飽きちゃう、というかなり器用貧乏的能力を持て余した小学生だったので、本気で気持ちを注げる手強い対象ができたのは嬉しかった。
なんせ競技として満点を取るのが難しい。関わる人が多くてイレギュラーなことが沢山起こる。そこがいい。
外野手も内野手も「チーム!」「連携!」という感じで楽しかったが、
5年生になり身長も160センチを超えた頃、秋の大会からピッチャーをやらせてもらうことになってさらに気持ちが高まった。
我が小学校は100m直線コースと300mトラックを擁する都内には珍しいどデカ校庭で、走攻守の基礎体力を育むには十分すぎる環境だった。
運動会前でもないのに学校の休み時間は走り込み。腕力つけたくて雲梯を何往復も。付き合ってくれたリエちゃんありがとう。
父の草野球チームのメンバーの、林さんと言うおじさんが我が町のソフトボールチームの監督。ちょっと先生っぽい分厚い黒縁メガネのラッパズボンは、おおよそスポーツマンとは程遠いルックスなのだがとても熱心に指導してくれ、父にも私にも全く遠慮なく、厳しく私を鍛えた。
熱心すぎて一代前のピッチャーはしょっちゅう林さんの厳しい指導に激泣きしていた。
父母とも厳しくなく、先生からもどちらかというと贔屓されて調子に乗っていたから、この大人はインパクトがあった。泣くということは私はなかったが、対子供とか対女の子、といった接し方が全くなく、何かを上手くなろうとするいち人間に向かって憎まれてもしょうがない程怒り、指導者として真摯に向き合ってくる大人。当然無償だし何の利害関係もないのに!
夏休み初日の朝。
父に私の性格を吹き込まれたのか、夏休みで遊び呆けソフトボールに飽きることを危惧したのだろうか、
林さんはラジオ体操が終わった後、私に声をかけてきた。
明日からここで一緒に毎日100球投げこもうという。
「えーやだー。皆から見られるじゃんー」
しかし、朝ごはんなのか二度寝なのか友達はラジオ体操が終わるととっとと家に帰っていき、むしろ寂しい。
あんなに賑やかなラジオ体操の公園だったのに、蝉の声とグローブとミットの音が響くのみ。
とにかく、努力するという言葉の意味が実感としてわからない。同じ事を100回もするなんてとんでもない。ビシっといい球投げれたら満足だし、もう帰りたい。
それが許されない厳しい世界、100球投げ込み。
なんとか夏休み最終日までやり切った。同じことが一月半も続くなんて人生初の快挙。
夏休みの自由研究で賞を獲った数年前より、よっぽど褒めてくれ誰か!この快挙を!
自分にしかわからない自分の成長というのはあるもので、
気づけばある程度の球種をコントロールできるようになっていた。
秋の大会は厳しいデットヒートのすえ、優勝した。
(ちなみに決勝で対戦相手のピッチャーは中学で同級生となり今のド親友)
6年生でも連覇、、といきたいところだったが流石にさらに1年も経つと私の興味は水泳に移行してしまったのはご愛嬌。
中学になり暗記が必要になってくると役に立った100回書き。高校の時受けた英検準一級の未来永劫絶対使いそうにない英単語や覚えにくい世界史の人名も、100回書いて音読すりゃなんとかなったし、100回やってもできないものは最後まで残して集中してやっつけりゃいい、100日付き合ってうまくいかなきゃ別れりゃいい、といった人生攻略の型が「私のできる限界の根気」として自然と身について生きてきたように思う。
林さんは左翼活動をされていて、逮捕歴もあったんだそう。あの眼光の鋭さは然もありなん。「人を一面だけで捉えてはいけない」というよくあるフレーズを見かけるとポジティブでもネガティブでもなくニュートラルな質感で林さんを思い出す。
プロの指導者でもないのに、ソフトボールを介して、私の辞書になかった「努力」と「根性」の感覚を教えてくれた大人。
親でも先生でもない、町の名もなき指導者。
私も誰かのそんな存在になれたら良いなと思い生きているが、昔に比べると圧倒的にそんなチャンスが少ない地域社会、せっかく地元に帰ってきたのでどこかで糸口を見つけたいなと思っている。
1992年6月の日記
最近諸用で大学構内に行くことが多いので色々思い出す。
大学時代はさほど友人も多くなかった私だが、19の時ミスコンにでたおかげで出役のバイトをしたり、エージェントに所属したことで学外のいろんなところに顔を出し外の世界を楽しむことができたのは本当によかったと思う。
しかしミスコン出場も「舞台に立った」という表現が本当に正しく、今のようにあまたの中から選ばれたファイナリストという訳ではないのがミソ。
当時うちの大学の女子学生でミスコンなんかに出たいと思う人間は少なく、謙遜系か女性蔑視と捉える系が主流だろうから、たとえ声をかけられても断った人が多かったのではないだろうか。
梅雨空の文キャンカフェテリア。
単に舞台映えがしそうなデカくて派手目な顔立ちの生命体ということでイベントの直前のタイミングでで勧誘されたのだった。一緒にいた仲良し二人の方が私よりよっぽど可愛らしいのに。
「あと一人、、、」とイベントサークルの人が言っていた残りの一人も、隣のクラスの一見派手目な感じの子だった。
自己顕示欲の塊ゾンビがSNSに溢れる令和から見ると本当に信じられないが、少なくとも学内女子のマインドはそういった出たがりへの冷笑的空気が漂っていたし、異性の同級生も若干引いていた。
大学で何を成すかのフックが見出せていなかった私は、何かのきっかけになればと思ったし、文化遺産のようになっている大学の講堂に立てるのは嬉しかった。
どんな景色なのだろうと思いながら当日リハーサルに臨んだ。
業界もどきみたいな慣れた感じのイベントサークルの面々や司会の芸人の方々と挨拶しつつ、ちょっと浮ついた雰囲気がなーーんか合わないかも、、と話しやすそうな大人しめの隣の女の子に毒付くなどした。
語学クラスの友達には、来ないでと強く念押ししたし、開催時間はちょうど語学の授業の時間だったから、知り合いが誰も見に来ないだろうと思った私は入賞などどうでもよく、水着をわざわざそのために買うわけもなく、高校の時に外苑プールで泳ぐために買ったちょい派手ワンピースを持参した。とにかくその場を楽しめればそれでよかった。
(全く集客に貢献しない酷い出演者!)
水着に着替えていたらファイナリストで唯一話せたさっきの大人し系の彼女が深刻な顔で私に声をかけてきた。なんでも、ずっと治らない背中の湿疹があり、やっぱりこのままでは人目に晒せないので、水着に着替えたらファンデーションを塗って欲しいという。
私たち以外の6人はなんだかバチバチで声も掛け合わない。その空気が息苦しいのもあり、私は喜んで彼女と講堂のソデへ。我ながら綺麗に塗れて、不安げだった彼女も笑顔になり嬉しかった。
自己PRという名の一芸披露、提供社からのスキーウエアの着用タイム(バブルの残り香)、水着タイム、とプログラムは続き、だんだん舞台に慣れてくるとお客さんの顔が少しずつ見えてきた。応援団を連れてきている子もいて、その盛り上げも愉快で楽しんだ。
審査員とお客さんの投票で結果が決まるから、優勝したくてしょうがなかったら、そうか、組織票か!なんてことを舞台に立ってる段階で気づきなるほどと思う鈍臭い私なのであった。
ー
優勝したのは私が背中にファンデを塗ってあげたおとなしめの彼女だった。
舞台上の彼女より喜んでしまって司会の芸人に突っ込まれたことと、他の6人の冷たい視線は忘れられない。が、私はとても嬉しかったんだ。
翌日、帰宅の西武新宿線でスポーツ新聞を読む人の隙間から記事になった彼女の写真を見て、改めて誇らしく思った光景は忘れられない。
1週間後「ミスコン優勝者とプロ受けは別」といった謎のメッセージと共にエージェントから声をかけられ、仕事をすることになるのだがやはり彼女はそういった仕事にはいなかった。
今頃どうしてるんだろう?
1995年5月を起点に振り返る日記
付き合って3年にもなると、誕生日のプレゼント合戦がエスカレートしてくる。
お互い別に金持な家でもなく、私は自宅生で出役として出演料が出るようなバイトをやっており、彼は新聞奨学生で可処分所得はお互い今よりあったんじゃないかと思う。(当時新聞奨学生は学費+給料&住居タダなので早起きが苦でなければかなりリッチな暮らしだと傍で見ていて感じていた)
まだバブルが弾けるか弾けないかくらいの実感しかなかった消費社会の真っ只中、欲しいものだらけだった私たちは、1ヶ月違うお互いの誕生日を前に毎年欲しいものをヒアリングしあい、雑誌を片手にお店に行き、香水やジーンズをねだりあった。
3年目の今年に至っては先に誕生日が来る彼へのプレゼントを、ギブソンにするかSchottにするか、、でお店を巡っていた。
就活はぼちぼち始まったくらいで色んな会社の初任給を見ながらふと、こんなプレゼント合戦、いつまで続くんだろ?と自分の態度を棚に上げて急に冷めた。
彼にではなく、消費合戦に。
消費ってなんだろう?消費のメカニズムを現場で知りたいな。
1年後、バブルが弾けた不況の中でもバリバリ業績を上げていたコンシューマ向け企業に商品企画として入った。商品の提供側という逆の立場になって消費の煽り方を学び、売れる商品のノウハウを真似し、幾つかの商品を当てた。
彼とはよくある感じで就職して程なくして別れた。
(大学時代の貯蓄を元手に株を、NISAを、なんて話を後輩から聞くと心から驚く昨今です。)
2005年4月の日記
その年の1月から同棲のために京都へ来ていた私は、春から近所の大会社で働き十分に遊べるお金を得、生活を楽しみつつ趣味のライブ観戦へ文字どうり東奔西走していた。
京都は日本全国から見て観光地でありすなわち日本全国へのアクセスがあり、グルーピー稼業にはうってつけの場所なんである。高速バスさえあれば離島以外は日帰りできるし、泊まるとなってもビジホは5000円以下だった。(20年経ちアクセス以外の面で難易度が上がってるのだろうが)ファイナルの東京は帰省にかこつけて絶対行けるし。
当時の中堅どころのアーチストは平日に地方ライブをすることが結構あり、すでに仕事上の信頼を勝ち得ていた私は有給もしっかりと取り基本的に行ける範囲は全箇所行っていた。そんなことをしても経済的に全く破綻することなく、割と豊かに生活できていたのはデフレ真っ只中の経済状況と、干渉しない度が同じくらいのパートナーとの共同生活のおかげに他ならない。
そんなこんなで私の住む京都にそのアーチストが来るとなると、もう私が京都代表と言わんばかりにアピールし、おもてなしをした。東京出身なのにね。
朝、同居人と一緒に家を出、私は阪急に乗って街へ。桂駅にめちゃくちゃ人が溜まっていたが、河原町行きは何事もないかのように動いていた。
ミュージシャンへお土産に渡す一保堂のお茶を買いに寺町二条へ行くと、馴染みの雑貨屋さんの井戸端会議が聞こえてきた。
、、、JRで大事故があって、電車が止まっているという。
ライブを終えて家に帰ると、福知山線で脱線事故、大惨事だったと知った。
わからないけど、私のように有給をとって大阪に出てきた人、京都に遊びに行くつもりだった人もいたんじゃないかと思うと人ごとではない気がして苦しかった。
20年経つけど、やはり思い出すと苦しくなるな。
数年前に米原から新幹線に乗る機会があり琵琶湖線を使った。長い直線をガッツリ居眠りしている運転手がいたので名前プレートと寝ている後ろ姿を写真に撮ってJR西日本に送ったんだけど、該当者はいませんって返事が来たのいまだに腑に落ちてない。
2011年3月の日記
海外から東京に戻ってきて、しばらく編集プロダクションで企画や営業も含めた書く仕事をしばらくやった。6名ほどでやっている、友人の会社。とっても良くしてもらったけど離婚した身の上、慰謝料の500万は堅実投資に回してしまったし、その分をない事にして一生一人で食っていくには30代で20万円台というのは心許ないお給料(というか業界)。業界に回ってる金額規模が小さくさらに編プロにはお金が回りにくい構造だった。
幸い走り出して短い間にも自分の仕事がいろいろ世に出て、ある程度そういった実力の確認というか、満足感は得たので割とあっさり見切りをつけた。
別の職種でも文章書く仕事ってあるよねと転職先に選んだのがお金の回りが安定的に良さそうな銀行系のサービス会社。先月14日、バレンタインデーから勤務している。
勤務地は神楽坂から神保町に変わったけど、神保町も親が育った好きな町。だから毎日ウキウキ出勤していた。銀行の支店の上にあるオフィス。出世コースから外れた定年待ち50代以降のもと行員の方々の出向先となっているから、社内で接する方々は皆温厚で優しかった。友達が社長で毎日が背水の陣みたいな小規模ベンチャーからは大きく環境が変わったが、持ち前の柔軟性で馴染んできた感覚のあった入社1ヶ月ごろ、新規ビジネスのアイデアを探しに私たちの部門で幕張メッセのある展示会に行くことになった。
よく晴れた金曜の昼下がり、南向きに座ったガラガラの京葉線は日差しが満ちてポカポカで、私と同僚のおじさま二人はうとうとしながら幕張に着いた。
お弁当を買って食べ終わって少しブースを回り始めた頃、コンパニオンの女の子たちのキャーという声にはっとした。什器の上に載った商品やサンプルが揺れている。この光景がこの世の最後のような勘が働いてグッと力が入った後急に血の気が引いた。どうすんのこれ。
幕張メッセ内は避難の号令など何も始まらないので、タバコを吸っているA氏がいるはずの屋外に出た。合流して空を見上げると幕張プリンスホテルが揺れの余韻でS字にしなり続けている。なんとなくだが、海の底から揺れている気がして怖くなって、相変わらず何の号令もない幕張メッセを後にして我々は勝手に、近くの芝生のある公園に行った。
時計を見ると15時。芝生の小高い山のてっぺんに居たら、地割れが始まった。怖くなって海から遠ざかろうとさらに駅の方に向かいながら、駅に殺到する人を横目に「これは、帰れないかもしれないからホテルを取ろう」という話になった。さすが、海外でディーラーをしていたこともあるB氏、先を読む感覚に長けている。全面的に賛成だ。どうせなら海から遠い方が良いということで、あるホテルに到着すると、同じ思考の人が50名くらいいた。カウンターに並んで何とか1部屋抑えた。部屋の中は割れている箇所もあるからとの注意あり。荷物を置いてダメもとで公衆電話から会社へ連絡しようとロビーに降りると大行列。だが皆、繋がらず次々諦めて列が縮んでいく。我々の会社は本社が大阪(もともと大阪拠点の銀行グループなので)。電話すると難なく通じ、総務に安否を確認してもらえて、ホッとした。
ホテルの近くにいくつかの飲食店を擁するショッピングモールがあった。地震発生とともに閉めているお店も多かったけど、通りかかったラーメン屋から私を呼ぶ声。自分は家に帰るから、あなたたち幕張から帰れないなら店にある味玉とチャーシューを持っていきなさいと。あと残ってたご飯でおにぎりも握ったからと。他の宿泊者にも配れるくらい頂いて、AさんBさんと三人で運んだ。ホテルにいたみんなが「でかした!」ってありがたがってくれた。
食事を済ませたあと、部屋に戻るとわたしの分のエクストラベットが設置されていた。
AさんBさんは当時30代だった私が、おじさんと泊まることをすごく申し訳ないと言ってくれたのだけど(二人とも大学生くらいの娘さんがいるからかな)私はそんなこと全然まったくへーきで、むしろAさんのいびきやこんな状況で平気で早くから寝れることにびっくりし、自分がAさんと一番離れたベッドであることに感謝した。BさんはつけっぱなしにしているTVをたまに見たり、うとうとしたりしていたかな。昼間のポカポカ電車のうとうととは大違いのうとうとだよね。
気づけば朝陽が眩しかった。私も疲れていたのかいつしか落ちて、かなりしっかり眠れて寝覚めはスッキリ。窓ぎわのベットから見える青空の手前の空気が何かしらの化学物質?なのか細かいキラキラした粒子に満ちていた。
あとで知る放射能漏れの話に恐怖したけど、千葉で起きていたコンビナートの火災のせいだったと後から知りかなり安堵した。放射能は目に見えない。
朝のニュースで、東京の大量の勤労者が帰宅困難者となって会社に泊まったり、夜通し歩いたり、自転車を買ったりして帰宅したことを知った。ヒールを履いてた人は途中で靴を買ったり、裸足で帰ったりした人もいたみたい。(ヒール靴ってほんと使えねぇな、まじで世の中から無くなればいいのに!)
ホテルをチェックアウトして、やたら晴れがましい幕張駅までの道でAさんは言った。「何この天気の良さ!(伸びをしながら)テニスしたーい!(キラキラの表情)」
Bさんや私のように読みすぎるくらい先を読んで動く人間よりも実は、こういった心持ちでいられる人間が一番クライシスに強いのかもしれない、羨ましいな、と思った。
3年後に次のステップに選んだ会社にもこの日の展示会に出向いていた人がいたので、当時どうしたのか聞いた。彼らはそのまま幕張メッセで日が暮れるまで指示を待って、待機につぐ待機の挙句、真っ暗な中毛布が配られ、眠れずに朝を待ったという。そりゃそうだ。津波があったと知りながらあんな海の近くで泊まるなんて、想像しただけで眠れないよね。そもそも、何を根拠にそんなに従順に言われるがままに行動できるのか謎だけど。
社会的にもいい会社と認知されがちな大企業で、実際社員も良い人ばっかりだったしインパクトある仕事ばかりで充実の日々だったけど、組織に自分の頭で考えて動ける人がいなくって、避難訓練するたびに「何かあったら絶対にこの人たちとは一緒に逃げたくないな」と思ったものです。
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(ここから今日)あれから14年経って、さらに南海トラフや千島海溝、首都圏直下などの大地震の危険性も強まるなか、ヒール靴は私の世界から無くなってないし、ホームや廊下に響くコツコツ音は相変わらず私をイライラさせる。